2018年7月29日日曜日

(116) 中干し完了 夕焼け雲がどんどん変化して・・・・

里山と田畑と暮らしとin Shimane 島根 ~三原の郷づくり第116

2018/7/26

約10日間の中干し完了、 カラカラで地割れした部分と、どうしても乾きにくい部分が混在ですが、これもやむなし。

夕方、田を見回っていると、久しぶりの綺麗な夕焼けと満月。
雲の形が、みるみる変化して。


明日から水入れ
夕焼雲と満月に見とれていると
ふと気づくといつの間にかこんな雲
見たとたん これ メバルだな 
かつては、素潜りで魚突くこと海人(うみんちゅ)の如し

2018年7月22日日曜日

(115) 幻の三原村の清流 奥谷渓谷復活のきざし

里山と田畑と暮らしとin Shimane 島根 ~三原の郷づくり第115

2018/7/20

50年くらい前までは、旧三原村の子達の極上の水遊び場であった奥谷渓谷、復活のきざしです。

まず写真をご覧あれ。

岩の滑り台から滝つぼにドボン
滝の上流にはなんとも綺麗な淵
こんな美しい沢が、すぐ近くにあるのです。
周りは国有林なので、許可を取ったうえで、川沿い林道わきの笹の刈取り、川への降り口の手入れ、滝つぼの岩除きなどをやっています。

(114)ただいま 中干し中

里山と田畑と暮らしとin Shimane 島根 ~三原の郷づくり第114

2018/7/22

猛暑が続く4日前より、田に水を当てるのを止めて、中干し中です。
現在の慣行農法に比べ、我が家の無農薬有機水田は、自然の摂理に合わせ栽培暦を約1ヵ月遅らせています。

4.5葉の成苗を、3本ずつほぼ尺角植えしていますが(31,33,109回投稿)、現在、茎数はほぼ30本(3本×10本)前後。順調というか、少し多めの分げつ。
来年は3本植えから、さらに1本減らして2本植えとしようか。


イセヒカリ(硬質米)


縁結び
手前 イセヒカリ、 奥 縁結び
むこうに見えるは円山
縁結び 石見冠山を遠望

2018年7月16日月曜日

(113) 佐左衛門水田に光合成細菌ご到来

里山と田畑と暮らしとin Shimane 島根 ~三原の郷づくり第113

2018/7/16

我が家の無農薬有機水田で、光合成細菌(赤菌)が広がってくれつつあります。
イトミミズ(106回投稿)に続くうれしい出来事。無農薬有機栽培3年目にして、次第に田んぼが良くなっているよう。

この赤い部分がそう
やや長くなりますが、光合成細菌とは:

湛水状態で有機物が多く、明るいところを好む嫌気性菌。べん毛で水中を活発に泳ぎまわり、土にも潜る。田んぼやドブくさいところに非常に多く、イネの根腐れを起こす硫化水素や悪臭のもとになるメルカプタンなど、作物に有害な物質をエサに高等植物なみの光合成を行なう(酸素は出さない)異色の細菌。一説によると、地球が硫化水素などに覆われていた数十億年前に光合成細菌やシアノバクテリア(酸素を出す)が現われ、現在の地球環境のもとをつくったそうだ。

環境を浄化する働きとともに、空中チッソを固定し、プロリンなどのアミノ酸や核酸のウラシル・シトシンをつくるため、作物に施用すると味をよくしたり土を肥沃にしたりする赤い色が特徴だが、その元であるカロチン色素によって果実のツヤや着色をよくする効果もある。菌体にはタンパク質やビタミンも豊富で、家畜や魚のエサにすると、成育が早まったり、産卵率が上がったりする。

酵母菌やバチルス菌などの好気性菌と共生すると、相互に働きが活性化されるという作用があるのがおもしろい。ダイズの根につく根粒菌も光合成細菌と共生すると、活性が長く維持される。
出所:農文協 ルーラル電子図書館

2018年7月8日日曜日

(112) 田植えばやしと歴史ロマン

里山と田畑と暮らしとin Shimane 島根 ~三原の郷づくり第112

2018/7/8


●三原の小笠原流田植えばやし


一週間前の7月1日、三原で小笠原流田植えばやしが行われました。
この田植えばやしは、戦国時代末期の天正6年(1578年)頃に、この地方を治めていた小笠原氏が、丸山城築城祝いと五穀豊穣を祈って始めたのを起源とし、近隣に広まったとされています。
中国地方の田植え歌は安芸・石見系、出雲・備後系、接触地帯系(小笠原流はこれ)の三系統。太鼓の構成などが違う。
出所:「日本民俗学における大田植え研究の成果と課題」高野宏

三原八幡宮の前に勢ぞろい
先頭はサゲ(左下、田植えの指揮者)のYさん
田の神(三拝、サンバイ)を祀り稲の豊穣を祈願
男衆
最前列は長老のTさん
二列目は舞のうまさが光るY君とH君
歌の早乙女
早乙女が着飾って田に入るのは、田の神に仕える巫女だったことのなごり
小太鼓の早乙女
簓(ささら)の小学生

Y君のバチさばき
鉦(かね)・簓(ささら)の鳴り物のチビさんたち
これは幼児の感性教育だね



●田植えばやしと歴史ロマン

今に伝わる東南アジア古代稲作儀礼としての田植えばやし


稲作文化(「大田植え<田植え歌を伴う田植え儀式>」などの稲作儀礼を含む)は、縄文末期から弥生にかけて、中国の長江下流域から日本に入ってきたとされます。
稲作文化の伝播ルート
そうした稲作文化における古代稲作儀礼を、今も色濃く残しているのが、上図の東亜半月孤(雲南省、ミャンマー、ヴェトナム、ラオスと国境)の少数民族(ハニ族、モン族など)。

その花モン族の田植えをご覧あれ、なんと日本の早乙女のイメージと似ていることか。
花モン族の田植え 棚田遠望

花モン族の田植え 近くで見ると 
ほとんど日本の早乙女


もっぱら中国地方山間部に残った田植えばやし

~気候、地質、たたら製鉄と深い関係

この部分は高野宏著「日本民俗学における大田植え研究の成果と課題」の中にある、「宮本常一による大田植え研究」の抜粋要約。宮本常一は生涯にわたり日本各地のフィールドワークを続けた民俗学者。 

日本に稲作とともに入ってきた稲作儀礼としての大田植え(田植え歌を伴う田植え儀式)は、いったんは日本全国に広まったあと、各地の環境に応じて変化し、結局、(中世以降・・・佐左衛門注)もっぱら中国地方の山間部に残る事になった。
>雪の多い東北地方では、農繁期の労働集中が厳しく、農耕儀礼を積雪期の正月行事に組み込んだ。
>深田の多い九州地方では、実際の田植えではなく、神社の御田植祭などの形式的なものに変化しがちだった
>中国地方の山間部は気候、地質(真砂土+粘土…佐左衛門注)とも大田植えに最も適していた。           
>それに加え、中国地方山間部では、たたら製鉄集団が大田植えを支えた。宮本はたたら師たちが、習俗の新しい担い手として登場したことによって、大田植えが中国山間地域に残存したとみた。
「こうした芸能を喜んだのは、もとからそこに住みついてついている百姓ではなく、他から来て住みついた勇み肌というか、ボヘミアン的な性格を持ったたたら師たち」

より俯瞰的にみると、中国地方山間部は、

平安時代までは稲作の先進地域、中世以降はたたら製鉄で栄えた。それゆえに、田植えばやしがこの地に残ったのではないか。

この部分は私、佐左衛門が調査し、まとめたものから引用
中国地方山間地域は、稲作の先進地域であったがゆえに、古代稲作儀礼が深く浸透し、中世から始まる田植えばやしなどの基礎となったのではないか。

またたたら製鉄で江戸・初頭明治まで栄えたがゆえに、稲作儀礼を続けていくための経済的基盤もあったのではなかろうか。

より詳しくは下記のリンク先をご参照。

稲作の先進地域&たたら製鉄