2018/7/8
●三原の小笠原流田植えばやし
一週間前の7月1日、三原で小笠原流田植えばやしが行われました。
この田植えばやしは、戦国時代末期の天正6年(1578年)頃に、この地方を治めていた小笠原氏が、丸山城築城祝いと五穀豊穣を祈って始めたのを起源とし、近隣に広まったとされています。
中国地方の田植え歌は安芸・石見系、出雲・備後系、接触地帯系(小笠原流はこれ)の三系統。太鼓の構成などが違う。
出所:「日本民俗学における大田植え研究の成果と課題」高野宏 |
三原八幡宮の前に勢ぞろい 先頭はサゲ(左下、田植えの指揮者)のYさん 田の神(三拝、サンバイ)を祀り稲の豊穣を祈願 |
男衆 最前列は長老のTさん 二列目は舞のうまさが光るY君とH君 |
歌の早乙女 早乙女が着飾って田に入るのは、田の神に仕える巫女だったことのなごり |
小太鼓の早乙女 簓(ささら)の小学生 |
Y君のバチさばき 鉦(かね)・簓(ささら)の鳴り物のチビさんたち これは幼児の感性教育だね |
●田植えばやしと歴史ロマン
今に伝わる東南アジア古代稲作儀礼としての田植えばやし
稲作文化(「大田植え<田植え歌を伴う田植え儀式>」などの稲作儀礼を含む)は、縄文末期から弥生にかけて、中国の長江下流域から日本に入ってきたとされます。
稲作文化の伝播ルート |
そうした稲作文化における古代稲作儀礼を、今も色濃く残しているのが、上図の東亜半月孤(雲南省、ミャンマー、ヴェトナム、ラオスと国境)の少数民族(ハニ族、モン族など)。
花モン族の田植え 棚田遠望 |
花モン族の田植え 近くで見ると ほとんど日本の早乙女 |
もっぱら中国地方山間部に残った田植えばやし
~気候、地質、たたら製鉄と深い関係
この部分は高野宏著「日本民俗学における大田植え研究の成果と課題」の中にある、「宮本常一による大田植え研究」の抜粋要約。宮本常一は生涯にわたり日本各地のフィールドワークを続けた民俗学者。
日本に稲作とともに入ってきた稲作儀礼としての大田植え(田植え歌を伴う田植え儀式)は、いったんは日本全国に広まったあと、各地の環境に応じて変化し、結局、(中世以降・・・佐左衛門注)もっぱら中国地方の山間部に残る事になった。
>雪の多い東北地方では、農繁期の労働集中が厳しく、農耕儀礼を積雪期の正月行事に組み込んだ。
>深田の多い九州地方では、実際の田植えではなく、神社の御田植祭などの形式的なものに変化しがちだった
>中国地方の山間部は気候、地質(真砂土+粘土…佐左衛門注)とも大田植えに最も適していた。
>それに加え、中国地方山間部では、たたら製鉄集団が大田植えを支えた。宮本はたたら師たちが、習俗の新しい担い手として登場したことによって、大田植えが中国山間地域に残存したとみた。
「こうした芸能を喜んだのは、もとからそこに住みついてついている百姓ではなく、他から来て住みついた勇み肌というか、ボヘミアン的な性格を持ったたたら師たち」
より俯瞰的にみると、中国地方山間部は、
平安時代までは稲作の先進地域、中世以降はたたら製鉄で栄えた。それゆえに、田植えばやしがこの地に残ったのではないか。
この部分は私、佐左衛門が調査し、まとめたものから引用中国地方山間地域は、稲作の先進地域であったがゆえに、古代稲作儀礼が深く浸透し、中世から始まる田植えばやしなどの基礎となったのではないか。
またたたら製鉄で江戸・初頭明治まで栄えたがゆえに、稲作儀礼を続けていくための経済的基盤もあったのではなかろうか。
より詳しくは下記のリンク先をご参照。
稲作の先進地域&たたら製鉄
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